「主を求めよ、そして生きよ」 02.05.12
アモス5:4〜15、ローマ12:1〜2
預言者アモスの時代のイスラエルは、安定と繁栄の時代を過ごしていました。
しかし、繁栄を享受する金持ちや力ある者は、貧しい者を苦しめ、公平や正義が
損なわれていたのでした。アモスは、<まことにこれは悪い時代だ>、
<主を求めよ、そして生きよ>と語ります。
人々は、神を無視していたのではありませんでした。立派なささげ物を差し出し、
肥えた動物などのいけにえを十分ささげて、盛大な礼拝を行っていたのです。
しかしそれは、まことに主を求めているのではありませんでした。
21節以下で、祭りのことが語られています。
そこで繰り返されているのは、<お前たち>という言葉です。
<お前たちの><お前たちは><お前たちが>です。
この祭りは<神の><神は><神が>という祭りとは違いました。
お前たちと呼ばれる人間が中心です。礼拝でも祭りでも、そこで、自分たちの
願いが求められていたのであり、神の御心を求めているのではありません。
神と人間が逆になっていました。人間が神より大きくなり、神を支配しようとして
います。神の御心を聞こうと求めるのでなく、自分の思いを聞かそうとしています。
主を求めるというのは、神の御心を求め、それに従おうとすることであり、
神に支配していただくことです。自分の願いを中心に生きる時には、簡単に
<裁きを苦(にが)ヨモギに変え、正しいことを地に投げ捨て>てしまう人間の
弱さがあります。そんな人間は、主を求めることからしか、まことに人として
生きる方向に方向転換する事はできません。
神を求める生き方は、損をする生き方ではありません。共にいてくださり、
憐れんでくださる神の恵みに置かれるのであり、自分の願いを求めていた
のでは得られない、神の与えてくださる幸いを与えられる生き方です。
自分の願いを求めることしか知らない人の多いこの世界に、「御心の
天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈る教会の存在が必要です。